こんにちはー、ヒーラーの大澤です。
前回は【何事にも傾きすぎない中庸になることが出来れば、心身共に穏やかな生活を送れます。】というお話でした。
あ、これは余談ですが
様々な経験や感動を経て深みが出ることを【角が取れた】とか【円熟】って言いますね!日本語って面白い!
さてさて
今日は前回の補足説明みたいな感じなので、ちょっと内容的に被る部分もあるかもしれませんがご了承ください。
中庸を目指して行く中でどうして無視出来ないものがあります。
それは感情や欲です。
それはこの世に人間として生み出された以上一生ついてまわります。
感情や欲自体は悪いものではありませんし、それらはもともと人間に備わってる生命活動を維持するために必要な反応です。
その影響力の強さもあって「ここだけは譲れない!」「分かっちゃいるけどやめられない…」という時って多かれ少なかれやっぱりあります。
そんな時、自分の中の強い思いを押し殺してまで中庸に寄せいく行為は健全ではありませんし、ある意味『中庸に囚われてる』とも捉えることが出来ます。
なので、中庸って『目的ではなく、あくまで手段のひとつ』くらいニュアンスで捉えたいですよね。
何のための手段か?それは幸せになるための手段です。
だって中庸に照準合わせても幸せじゃなかったらナンセンスですし、逆を言えば幸せだったら中庸になる必要なんて全くないですもんね。
あ、ちなみに、下記が目的と手段のそれぞれの意味ですので、もしよろしければご参考までに…。
【目的】
得ようとしてねらう対象。到達したい状態として意図し、行動を方向づけるもの。めあて。
【手段】
目的を達するためにその途上で使う方法。てだて。
これは簡単にいうと『極端じゃないニュートラルな状態は意識しても「なれなくてもまぁ良いか」』くらいに捉える』ってことです。
こういう風に捉えれば、穏やかでいられなかった時やこだわりが捨てきれなかった時に、たとえ反省することはあっても自分を責める必要はなくなります。
更に日頃からそのくらいのスタンスでいることよって、リラックスして今の自分の状態や興味関心を俯瞰的・客観的に見ることが出来ます。
例えるなら、自分の中に置いた中庸という名の起き上がりこぼしやメトロノームをぼんやり眺めるようなイメージです。
「あ、私いまコレにしっくり来てないや。じゃあ心の底は何を求めてるんだろう?」
「ん??なんか今の発言イラっとしたな。私の中のどこに引っかかるんだ??」
という具合に。
これがスピリチュアルでいうところ【理性で判断する】【ジャッジしない】ということではないでしょうか。
前回の重複にはなりますが、中庸とは「何にも傾きすぎない、何事にもとらわれない、何事にもこだわらない」ということです。
これは裏を返せば『中庸という概念にも傾きすぎない、とらわれない、こだわらない』ということです。
だから究極的な中庸というのは、もう人様に迷惑かけなければ何でもありな状態なわけで、これってまさにスピリチュアルでいうところ【自由意志】です。
何気なく日常生活送ってるだけで、実はスピリチュアル的な生き方が出来ているのかもしれませんね。
それではまた後ほど~(^^)/