親の心子知らず
守護霊のメッセージというのは
時にパッと目にした看板や
ふと聞こえてきた会話もしくは
直感によって送られてくる
そして繊細な感覚を持った人は
上記に加えてイメージや言葉として
それをキャッチすることがあるだろう。
かすくかくかかかさかかさか
最近はだいぶ少なくなったけど
20代前半の頃はだいぶ斜に構えていたと思う。
「こういう風にしなさい」に対して返す言葉は
「何であなたに俺の人生
決められないといけないわけ?」だった。
しかし、今、三児の父になって思うことは
【きっと守護霊というのは心配しながらも
自由を経験させてくれたのだな。
そして実は、常に目を配り心を配り
本当にピンチの時は掬い上げてくれたのだ】
ということだ。
なんでこんな気持ちが出てきたかというと
先日、次女が保育園に行く時に
交差点に飛び出しそうになり
そのことに対して次女に注意をしたら
「いいの!次女ちゃん車に轢かれないの!」
と言い返してきたのだ。
その時に「あー、こういうことか」と
気づきが起こったのだ。
親の心子知らず。
言い得て妙である。
子どもは交差点に飛び出したことで
車に轢かれるなんて
微塵も思っていないだろう。
親の気を惹きたくてワザと危険なことをする
というケースもあるかもしれないが
車に轢かれるということがどういうことで
その後にどんな面倒があるかも
それはそれは分かっていなかろう。
しかし大人である親は
自分が成長を経て得た学習や経験によって
車に轢かれるということがどんなことで
その後にどんな面倒があるかを知っている。
だから前もって注意をするし
本当に危ない時には
先回りして危険を回避させる。
守護霊は親である。
我々現世に生きる人は子だ。
さて、守護霊の子である我々人間は
どんな時も守護霊の声に従って
生きていけば良いかというと
これはYESでもありNOでもある。
想像してみて欲しい。
小さい内から親の言うことを
いついかなる時もキチッと守る子が
果たしてどれだけ幸せを感受できる?
どれだけ「自分はこんなにも親に愛されていた」
と、腹の底から感じることが出来よう?
親の気持ちを知って生きていくのも良いが
子は親の所有物でもなければ、操り人形でもない。
親も親で「私は伝え方を間違えない。
私の子育てや価値観は完璧だし
子どもは黙って親に従えば幸せなんだ」
と自身の言動を顧みない親は
まずほとんどいないであろう。
もしそんな親がいたら、その子どもは
「自分の話を聞いてくれなかった。
自分の意見を尊重してくれなかった」
と自らを閉ざしてしまうと想像に難くない。
とまぁ、だいぶ極端な話をしたが
実際のところ、守護霊からアドバイスを
もらえるという機会はそれほど多くない。
これは人間の親と同様に
自主性を尊重しているからだ。
子を愛するがゆえに
子の幸せを願うがゆえに
多少のリスクがあっても
自ら経験する機会を与えてくれていて
そこで得られる気づきが
人としての自立に繋がると知っているからだ。
つまり、バランスなのだと思う。
常に親にアドバイスを乞うことが
健全とは到底思えないし
我(エゴ)の声にばかり耳を傾ける人生も
孤独で苦しいものがあるだろう。
主体性を持って自分の人生を生きていく
その只中で降ってきた直感なり
たまたま目についたメッセージには
感謝と信頼をもって耳を傾ける。
これくらいのスタンスで良いのでは?と思う。
前述したように腹の底から
「私は選ぶ自由を与えられてる」
「私は見守ってもらえてる」
「私は愛されている」と
納得出来ていなければ
無理に声に従う必要もないだろう。
そんな気持ちで守護霊のメッセージや
直感に従って歩みを進めていても
不満が溜まる一方である。
我を貫きたくなる時があれば
「自分はまだ反抗期の子供なのだな」
と子どもの自分を受け入れて
大人になっていく成長の過程を楽しんだらいい。
親である守護霊はそんなあなたを見て
「なんだかなぁ…」と頭を抱えるかもしれない。
しかし自分が親になって思わされるが
子育ては本当に一筋縄ではいかない。
それは守護霊も同じである。
重複にはなるが、完璧な親などいないし
子を育てながら親も成長し学んでいるのだ。
そして我が子が辛い時には親も悲しいし
我が子が嬉しい時には親も嬉しい。
どんな中にあっても守護霊や見えない存在に
(神様と呼んでもいいと思うけど)
自由と経験を与えてくれていることに
感謝を持って生きていこうと思う。